運の暴力性=贈与性「狂ひ凧」

青い空に凧が五つ六つ揚がっているのを見た。凧の位置からして、ドブ川の岸あたりから揚げていると思われる。風が強く、またそこらで気流が渦巻くらしく、凧はすべて不安定に揺れ動いていた

 これは、梅崎春生の「狂ひ凧」という著作からの引用である。梅崎の言う凧は自己によって運命を決まる訳でもなく、キリスト教的な宿命論によって運命が左右されている訳ではない。凧は「不安定に」「揺れ動く」風によって動かされいる。言い換えるなら、我々の人生は偶然に左右されていることになる。

例えば、冒頭で、標識柱に車がぶつかり、その事故に第三者の女性が巻き込まれるという話。これは、もう「災難である」としか言い様がない。無論この災難は、女性自身によって、起こされたものではなし、超越的な力によって為された事故でもない。複数の意識が共存する舞台によって、結果的に作られてしまった事故に過ぎない。

本文の中ではそれを「運」と名指している。そして、運のない者として、城介という人物が登場する。城介は栄介と双子の兄弟である。城介は中学時代にうどん屋で食い逃げして学校を退学処分となる。退学処分となった城介は葬儀屋になるのだが、戦争が開始された途端に、戦地に飛ばされ、そこで死ぬ。この、城介は、戦争を生きて帰ってきた梅崎自身の対比なのではないか。死ぬことも生きることもつまるところ「運」なのである。運はとても暴力的かもしれない。しかし(それゆえに)救済にだってなる可能性がある。

 

狂い凧 (講談社文芸文庫)

狂い凧 (講談社文芸文庫)