ヒューム

愛国心とはどこからくるのか。事実、論理的に考えれば、日本人である理由など交換可能なものだ。歴史性というけれども、それも交換可能なもので、国あるいは、土地に必然性はない。しかしこの、交換可能なものに、趣味判断が侵入すると交換可能なものが交換不可能なもの、つまり必然性へと昇華される。例えば我々は過去を回想する時、その過去は現実性のものだと考えるが、事実はそうではない。その過去が過去であるには過ぎ去った現在であることが条件となりうるが、それによって過去を保証するものはすべて「過ぎ去った」ものとなる。過去を物的に保証するものはすべて、偶然性にほかならず、それを「論理」的に信じる事は不可能だ。しかしここで「私は私」であると信じるならば、過去は単なる夢想ではなく「確実性を持った夢想」となるだろう。この歴史は他者とは共有可能ではない。しかし他者とは共有できないが故に、それは趣味判断となり、信じるものへと変わる。

ヒュームが想定する国家は交換可能なものではない。いや、交換可能なものでなければホッブスの思考した絶対権力やロックの「宗教」と同じものとなる。従ってロックを乗り越えたヒュームは国家を絶対的なものにはしなかった。国家は交換可能なものだ。しかし国家の構成員たる、国民は祖国から離脱することがないという楽観は、国民と国家との間には趣味判断があり、偶然から生まれた趣味判断を恒常的に行い生成される黙約がある。この黙約は約束(promise)とは違う。約束は科学的利便性を第一とするが、黙約は過去を科学的利便性を保証しうる概念の結晶なのだ。従って、原理的に約束は黙約の下位概念としてある。この約束を言い換えれば「法」のことであり、黙約は「習慣」に位置する。

法は生活の反復作用としての習慣から生成されたもので、反復はこの場合、偶然から現前化し、努力をすることによって、恒常化され、必然化した、習慣のことである。ベルグソンはこのことを「創造」と呼んだ。創造は絶え間なく現実が続き、過去と未来は現実のこととなる。しかしこの現実は「制度化」された現実。つまり時間の断層としての差異を消去するもので、内的には動きうるものなのだが、外的な動きとしての「出来事」に目が向いていないのだ。ヒュームは、この時間の断層を法の反復の外側にある「判例」と呼ぶだろう。この差異としての「判例」がありうるからこそ反復は運動し続けることができる。何故なら反復は常に過去へとつながるものだが、差異は未来として、あるいは概念の創造としてある。従って判例は「制度化」された反復の外側にあると同時に最終的には習慣としての、生活を肯定する、生それ自体となる。

黙約から逃走する。しかし判例という放蕩息子は反復という父へと回帰し、法となるのだ