江藤淳①メモ

これから私が書こうとするのは、必ずしも江藤淳についてだけではない。寧ろあり得べき「私の江藤淳」を頭に描きながら、これを書こうとするものである。もとより江藤淳のテクストだけでは「江藤淳」と云う文人を理解する事は出来ない。彼の後ろ側に絶対に立って居るであろう死者たちを理解すること、つまり江藤淳とともに共生しうる死者とあたかも時間的に同時期に存在しうるような形でしか読解は不可能だ。「あり得べき江藤淳」のなかには「近代の宿命」が宿命論的に内在しているはずで、自明のものとされる「文化」が「見えない」検閲よって作られ、現実が「虚体」でしか創造し得ない状況。このような洞察は「既存の状況」を「自明」のものとするプラグマティストにとっては「寝言」としか聞こえないのだろうが、彼の「研ぎ澄まされた」感性はその事に「息苦しさ」を感じた。小林秀雄が既存も文壇の流行を「意匠」としたように彼にとって「沈黙」を忘れ「幻想」を「現実」としてしか理解できない戦後への「苛立ち」は時間の宿命性を越えて「林羅山」「藤原惺窩」「近松門左衛門」そして「夏目漱石」へと共生されうる。この「幻想を現実のものとしてしまう」問題は戦後と云う限られた歴史の問題ではない。かつては中国に学び今は西洋・アメリカに学ぶ日本にとってこの問題は切実だったのだろう。あり得るべき現実ほど探しても見つからないものはない。しかし「違和感」を感じてしまったらその事を考えずにはおれないのだろう。