小島信夫メモ「抱擁家族」
- 小説の力点の移動
抱擁家族に於いて、まず重要なのは、主人公の三輪俊介が物語の主体、つまり物語る立場ではなく、物語の一部として、存在するという事だ。物語は俊介の意志と関係なく進み、寧ろ物語に飲み込まれ、なすすべのない状況に追い込まれる。
「俊介のなすすべのなさ」は家の崩壊として表象される。家庭に入り込み、妻の時子を寝取ってしまうアメリカ人のジョージは、小説=家を破壊する外部の侵入者であり、ジョージの侵入から、夫婦生活の滑稽=非リアリズム化が露わとなる。これは単に物語のプロットとしての「滑稽」ではない。それは、近代小説が持ち得たリアリズムの破綻であり、これ以降の小島信夫の著作にも顕著となる寓話性の萌芽であるように思われる。
- 「塀」
物語の中で、俊介が塀を作りたがるシーンがある。
「この家にもっと大きな塀が欲しい」
「塀?」
「かこんでしまうんだ」
中略
「問題はな、時子、中の生活だよ。どう仲睦まじく暮らすかということだよ」
これは、今や壊れようとしている家=小説を塀という外部との境界線を設けようとする意志だろう。俊介は家=小説のリアリズムを守ろうとするが、その意識は妻の時子にはわからない。むしろ時子は「突発的計画」を持ち出し、家=小説を積極的に変えようとする俊介の意識は疎外される事となる。
それから、会話のシーンが異常に多いということ。これは先にも言った様に小説の力点が移動して、リゾーム的な関係性の対話(=ポリフォニー)による、物語の生成技法の様に思われる。
- 感想
抱擁家族は、三輪俊介の家=リアリズムを守ろうとする意識が成すすべなく外部=アメリカによって蝕まれ、母の死とともに家が崩壊してしまう話で、このことは物語方にも出ている。全編を通して、対話によって話が進み、時子がホルモンの異常によって髭が生えた時も、なにか、それは「笑い」として受け止められる。これはリアリズムー非リアリズム(不条理)という対立構造が解体され、条理と不条理がごった煮になってしまった事の象徴だろう。
今回とりあげた抱擁家族だけではなく、特に後期の小島信夫には、条理-不条理の対立がなく、寓話精神によって物語は持続するのであり、この方法は筒井康隆や村上春樹になにほどか影響を与えてるのであろうと、私は適当な夢想をするのである。
ちなみに江藤淳の『成熟の喪失』では敗戦と絡めた形で抱擁家族を評価しているが、私はあの評論は、江藤が小島信夫をダシに使っただけではないのかと少なからず思っている。確かにほかの著作に比べれば、あたっているし、読み物としてもふつうに面白い。しかしあの批評は、あの時代と、江藤淳という人が行った読解なのだからビビットなのであって、文学のことなど本質的にはどうでもよいと思っている社会学者がジェンダーフリー運動のために抱擁家族と江藤淳をアジびらとして使用するのは、なんとも「滑稽」だなと思うのである。
- 作者: ミハイル・バフチン,Mikhail Mikhailovich Bakhtin,望月哲男,鈴木淳一
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1995/03
- メディア: 文庫
- 購入: 2人 クリック: 11回
- この商品を含むブログ (33件) を見る